その日の俺は、この国の神の頂点である陽神アマテラスさまに呼ばれて、伊勢の神宮にいた。しかし呼ばれたと言っても、内容は気楽な雑談だった。
アマテラスさまの紹介で、神務省退魔局で働くようになって半年。
ありがたい事に俺の事を気にかけてくださっていたらしく、アマテラスさまは俺のこれまでの様子を、親身に聞いてくれた。
それはもちろん、ありがたい事なのだが 今俺は別の問題に直面していた。
「こんな極東のちっぽけな島国の女王って言ったって、たかが知れてると思わないかい、八雲?」
黒猫の姿をした元神、クロが俺にそう話しかけてくる。
「ええっと……」
俺がそれに答えようとすると、その前に別の方向から話しかけられた。
「ふふ、ちっぽけな島国と言えばあなたの故郷もそうでしょうに、ねえ八雲?」
「いや、あのですね」
そちらにいるのは、陽神アマテラスさまだ。
顔にはいつもの慈愛にみちたにこやかな笑みを浮かべているものの、その言葉はどこか辛辣なものだった。
皮肉屋のクロはともかく、いつも穏やかなこの方がこんな言い方をしてくるのも珍しい。クロが元とはいえ外国の神だからというのもあるのだろうが。
「そもそもだね、嫌な事があったからって岩の中にひきこもるような無責任なやつが、女王だなんてふざけてるよね、八雲?」
「自分の国の戦争を、よそから来た自分の弟子にすべて片付けてもらうような女王が、よく言えたものだと思いませんか、八雲?」
「なんでどっちも俺に話しかけてくるんだよ!」
たまりかねて俺は叫んだ。
この二人(二柱というべきかもしれないが)、互いの事を話しているのに一切相手を見ずに、ただ俺に向いて話をしてくるのだ。
板挟みになっている俺としては非常やりづらい。
俺の叫びに、クロとアマテラスさまは一瞬口をつぐんだ が。
「まったくそうだよね、ほんとこの女神は人の迷惑を考えないんだから、君もそう思うだろ八雲」
「あなたの言うとおりですね、八雲。猫というのはそういう存在ですが、仮にも元神であるのなら、愛する人間へ迷惑をかけるのは控えるべきです」
「べ、別にボクはこいつを愛してるわけじゃないぞ!」
「はい? わたくしは神の人間への無償の愛について言ったのですけど?」
こうして丁々発止とやりあっているのに、目は絶対に相手には向けていないのだ。
「人が先に目を付けたのをあとからかっさらおうとするのが悪いんだよ、ねえ八雲!」
「この国の人間はすべからく、生まれた時から私が眼をつけているのです、ねえ八雲?」
「……だから俺に言ってくるなよ」
ほとほと困り果て、俺はその場でやれやれと天を仰いだ。
「それでは、わたくしはもう行きますね、あなたたちはここでゆっくりとしていきなさい」
そうしてしばし歓談した後、アマテラスさまは去って行った。
残された俺は、ほっと息を吐きながらとなりのクロを見下ろす。足を崩しながら、ほとほと困ってクロを見下ろした。
「お前なあ、もう少し仲良くやってくれよ」
「なにさ、君はあっちの味方をするのか?」
恨みがましい声でクロはそう言った。
「なんでそんなにアマテラスさまを毛嫌いするかねえ?」
「ふん、ボクにだって譲れないものがあるんだよ たとえ相手が格上だろうとね」
「格上?」
クロは矜持の高いやつだから、こうしてはっきりと相手が格上だと認めるのは珍しい。というか、俺の知っている限り初めてのことだった。
「神として零落してるボクと いや、たとえ零落していなかったとしても、神としての格は向こうの方がずっと上さ」
「へえ……」
まあ、それはそうだろう。
なにせアマテラスさまは正真正銘、この国の神の頂点なのだから。
アマテラスさまより格上の神となると、世界中を捜してもそうはいない。
三大宗教の頂点か、それに準ずる存在くらいだろう。
そんな方が、こうして俺なんかに気安げに話をして下さる、というのは本当に凄い事なのだが、まあいまはそれはいいか。
「だったらもう少し、相応の態度はとれないのかよ?」
「別にとれない訳じゃないさ。けどね、こっちにだって譲れないものがある。ボクの縄張りに後からずかずかやってきて、仲良くなんかできるかってんだ」
「なんだよ縄張りって? 土地の事なら、この国がいわばアマテラスさまの縄張りだぞ?」
尋ねる俺をクロはじっと見てきたが、やがてはあとため息を吐いた。
「分からないならいいよ、まったく」
そう言われてはさらに気になるのだが、クロはいつの間にか座布団の上で丸くなって、目を閉じてしまっている。
こうなったらこいつは頑固なので、これ以上は尋ねても無駄だろう。
それにため息をつきながら、俺はふと別の事が気になった。
「あれ、そう言えば俺ってお前の神としての正体を知らないな」
尋ねると、クロは眼を開けて俺をじろりと睨む。
「なにさ、今頃」
「いや、そうなんだけど、これまで気にしてなかったからさ」
これまでは自分の事で手いっぱいだったので、気にしていなかった。
いや、気にした事はあったのだが、尋ねてもはぐらかされるし、それ以上は追及しなかったのだが、今の俺は退魔官となった事である程度の余裕がある。
これもいい機会だと、そう思ったのだが
「で、どうなんだ? お前、零落する前はなんていう神だったんだよ?」
俺の質問に、クロはそっぽを向いた。
「ふん、君になんか教えてやるもんか」
なぜか拗ねた口調である。
これまでなら俺も、ここで引き下がっていたのだが。
「まあそう言わずに、教えてくれよ」
「やだね」
「そこをなんとか」
「しつこいなあもう」
頼み込んでいると、やれやれと言った様子でクロがようやく俺に目を向けた。それからなにかを窺うようにして、こう言ってくる。
「……そんなにボクの事が、気になるのかい?」
「ああ、もちろん」
「ふうん、そうかそうか」
断言すると、クロはなぜか上機嫌になった。声はいつも通りを装っているが、その尻尾がゆらりゆらりと揺れているので丸わかりだ。
猫ってのはまったく気まぐれなもんだ。
ただそれでも、クロはその正体を教えてくれる気は無いようだった。いつものように尊大な口調で、俺にこう告げる。
「そうだね 君が立派な英雄になったら、その時に教えてやるよ」
「お、言ったな。約束だぞ」
「それがいつになるか、見当もつかないけどね」
「まあ見てろ、いつになるか分からないのは俺も同じだが、必ずそうなってやる」
「ああ 楽しみにしているよ」
そう言った時のクロの表情は 猫のものなので分かりづらいが、優しく微笑んだように俺には見えたのだった。