秋もそろそろ終わり、冬の足音がちらほら聞こえ始めてきた、とある休日の昼下がり。
清く正しい男子高校生であるところの俺こと草薙鎮雄は、公務員宿舎とは名ばかりの築数十年のオンボロアパートの部屋にひとり閉じこもり、膨らみ分に感謝の念を捧げるところだった。
膨らみ分とは女性の、む、むむむむ胸! お、おおおおおっぱい様! のことだ。
実は先日、おっぱいの単純所持すら禁止する『おっぱい禁止法』なる歴史上類を見ない悪法が国会で可決されそうになったこともあって、膨らみ分がどれだけ偉大でありがたい存在であるかを改めて実感したのである。
というわけで、グラビアアイドルの水着写真集だ。
「いざ行かん、素晴らしき膨らみ分の世界へ……!」
だが、開いたページをじっくりと鑑賞する時間は与えられなかった。
本を開いたまさにその瞬間、トトトン! というノック音がすると同時に俺の部屋の戸は蹴破られ、そいつが躍り込んできたからだ。
「鎮雄さんが浮気しているという通報が、ペンネーム『善意の第三者どすえ?』さんから寄せられましたです! いったいどういうことなのか、鎮雄さんは鎮雄さんの愛妻であるわたしに説明する責任があると思うです!」
見た感じ十歳ぐらい。椿色した桜舞う華やかな和服を着付け、艶々黒髪おかっぱにネコミミっぽい真っ赤なリボンをつけている。
こいつは日本子。日本を司る神姫である。
神姫とは国そのものであり、日本子が泣けば日本全国雨が降り、激しく喜んだりすれば季節を無視して桜が咲いたりする。
でもって日本を司っていることで変なブームを起こすこともできて、そのせいで俺はものすごい苦労を強いられてきた。
あと、日本を司っているくせに和菓子が泣くほど嫌いで、洋菓子が大好きだったりする。
ちなみに俺はそんな日本子の世話係である〝影の総理大臣〟なる役目(時給七八〇円)を仰せつかっている。
「いきなり現れて、日本子、お前は何わけのわからないことを言ってるんだ?」
「ちょ、鎮雄さん! そんなに褒めるのやめて欲しいですっ! 照れてしまいますです!」
「まったく褒めていない!!」
「思わず神罰スイッチを押したくなってしまいますです!」
言いながら、日本子は懐から取り出した神罰スイッチを押していた。
直後、俺の首にはめられたチョーカーに見えなくもない神罰発生装置から黄土色の煙(超臭い)が噴き出す。
神罰スイッチとは、日本子が俺にお仕置きする時に押すものなので、一見すると嫌がらせしているようにしか思えないのだが、真っ赤になってモジモジ身悶えている日本子を見ればわかるとおり、照れ隠しする時にも使われるのだ。まったくはた迷惑な奴。
「し、鎮雄さんが悪臭に包まれながら笑っているです! 変態です!」
言って、俺から、ズザサァーッ! と壮絶に距離をとる日本子だった。
とりあえずさっきまで開いていた写真集を閉じ、俺は日本子を見た。
正確にはその後ろにいる、長い髪をゆるい三つ編みにした、メイド服の人だ。
阿素巳さんと言って、日本子の従者。
でも従者らしい仕事は何ひとつせず、余計なことだけ人一倍するろくでもない人である。
「何か?」
言った阿素巳さんの膨らみ分が、ぽにゅぅぅぅん、と揺れる。おいおい誰がろくでもない人だって!? この人最高じゃないか! ――などと誤魔化されていたのは昔の俺であり、いろんなことを経験した俺は成長し、その程度では誤魔化されないのである。
「ペンネーム『善意の第三者どすえ?』さんって、阿素巳さんのことだよな?」
「いややわ、草薙様やったら。なんでわかりはったんどすえ? うち、照れてしまいますやんなぁ?」
とか言うくせに、阿素巳さんはいつもどおり冷ややかな表情で、ちっとも照れてなどいなかった。
「まさか阿素巳が浮気相手だったです!?」
日本子が再び神罰スイッチに手を伸ばす。
「違う! 落ち着け日本子! そうだ、深呼吸してみるんだ!」
「わかりましたです!」
言って、日本子が近づいてくる。
そのまま俺に、ぴとっ、とくっつき、くんかくんかし始めた。
「これが鎮雄さんの匂い……。めちゃくちゃ臭いです!」
「俺が臭いみたいに言うな!! さっきお前が押した神罰スイッチのせいだ!」
などと言っている場合じゃない。
「何をしている?」
俺は深呼吸をしろと言ったはずなのだが。日本子のどんなことでも曲解する能力が発動したのか?
「こうして匂いをかぐことで、鎮雄さんをドキドキさせることができるという風の噂が」
「阿素巳さんの入れ知恵か……」
「違いますですよ?」
「なんだと!? なら、誰が?」
「拙者でござる!」
そんな声とともに部屋の中に現れたのは、マントと仮面と触角みたいなアホ毛が二本ついたカチューシャをつけた奴だった。
「お、お前は!? フランスの神姫、フランス子の名を騙るド変態オタクじゃないか……!」
「ちょ、失礼でござるな!? 拙者はド変態ではないでござる!」
「ド変態はみんなそう言う」
「草薙殿が言うと説得力が違うでござるなぁ……」
「おい、どういう意味だ?」
「拙者の名前は、謎のアホ毛仮面マークⅡでござる!」
尋ねる俺を無視してそんなことを言い張るが、こいつは正真正銘、フランス子。フランスを司る神姫である。
どうしてそんな変な格好をしているのかと言えば、さっきも言ったとおり、ド変態オタクだからだ。
何せフランスの神姫なのに、最新の日本文化を学ぶために留学してきた――という名目で九月からずっと毎日秋葉原に入り浸り、三食とおやつに美少女フィギュアを取っ替え引っ替えペロペロするほどなのである。
「それで、どうでござるか草薙殿。日本子殿との密着、ドキドキしたでござるか?」
「まったくしないな」
「とか言いながら、顔が真っ赤でござるよ?」
「そんな事実は存在しまひぇん!」
日本子、阿素巳さん、アホ毛仮面がツッコミを入れてくる。
「噛んだです」「噛みはりましたなぁ」「噛んだでござる」
噛んでまひぇん!
「それで、何がどうして、俺が浮気したとかいう話になったんだ?」
アホ毛仮面が言う。
「実はアメリカ子殿から手紙が届いたのでござるよ」
「アメリカ子から?」
アメリカ子というのは日本子やフランス子と同じ神姫で、アメリカを司っている奴だ。ちなみに蜂蜜色の髪をツインテールにした超絶美少女天使。
夏休みが終わり新学期が始まったある日、俺はある目的を持って来日したあいつの世話係をした。
「何でも、世界神姫総選挙を開催するから、ふるって参加するようにとあったでござる」
「世界神姫総選挙? なんだそれ」
「明日の神姫業界を背負って立つセンターを決めるための選挙……らしいでござるよ?」
何となくわかるような、わからないような。
というか、
「神姫業界なんてものがあるのか?」
「みたいでござるな……」
他人事みたいに言うな。
ともあれ、なるほど。
アメリカ子からのそんな手紙をいつものように阿素巳さんが面白おかしく誇張し、日本子も日本子で持ち前の残念な曲解能力を駆使して、俺がアメリカ子と浮気しているとか何とか、そういう話になったのだろう。
「ちなみに拙者にはこの案内状は届いていないでござる」
「世界神姫総選挙なんだろう? 何でだ?」
俺のその質問に答えたのは、またまた新しく現れた、黒スーツの人物だった。
「どうやらアメリカ子様、この前日本に来た時、相当悔しい思いをしたらしくてね。そのリベンジをしたいみたいなんだよ」
以巳樹だ。
元々は日本子の従者で阿素巳さんの同僚だったのだが、紆余曲折を経て、なぜかアメリカ子の従者になったという経歴の持ち主。
実はこの以巳樹、普通にイケメンなのだが、話すとボロが出るというか、日本子とは違う意味で残念というか。
「久しぶりだな、以巳樹。――で、それは何だ?」
黒スーツの下に、肉襦袢を着込んで力士のようになっている。
「よく気づいてくれたね、草薙! ほら、僕、別れ際に言ったよね。一回りも二回りも大きくなって戻ってくるって」
「ああ。言ってたな」
「だから、これなんだよ!」
物理的(?)に大きくなる、だと!?
阿素巳さんが笑いながら言う。
「いや、以巳樹やったら、相変わらずお阿呆さんどすなぁ?」
話すと出てくるボロというのは、まあ、こういうことだった。
で、そんな以巳樹がどうしてここにいるのかと聞けば、アメリカ子の手紙を持ってきたのだそうだ。
アメリカ子の思惑は了解した。確かにあいつは負けん気が強い感じのする奴で、しかしそんなアメリカ子に振り回されるのはあの時だけで充分だ。
だが、そう考えていたのは俺だけだった。
「すでに参加手続きは済ませましたです!」
日本子が高らかに宣言した。
「これはアメリカを司る神姫を名乗るつるぺた子からの挑戦状です! 見ていてくださいです鎮雄さん! この勝負に勝って、わたしこそが鎮雄さんの嫁だということを証明してみせますです!」
そういう話……だったか?
首を傾げていると、
「もちろン、日本国政府として全面的に日本子様に協力するさね」
などと言いながら俺の祖母、御年七十ウン歳の日枝観琴が藤色のスーツにあたたかそうなストールを巻いた姿で現れた。
実はこの観琴さん、俺を〝影の総理大臣〟に任命した人であり、日本初の女性の内閣総理大臣でもあったりするのだ。
何で観琴さんがここに?
……ああ、そうか。阿素巳さんが『その方が面白そうだから』とかいう理由で、観琴さんに話したのだろう。視界の隅でその阿素巳さんが俺を見てはんなりと笑ってるし。
「前回、アメリカ子様が来日した際、いいようにやられっぱなしだったというのは癪だからね」
観琴さん、負けん気が強いところがあるからな。
「アメリカ子様に一矢報いるために、どンな手を使ってでも増税して、税金を湯水のように投入しようじゃないか!」
どうして俺の祖母は何かにつけて増税しようとしたがるのか。まずは身を切る改革からすべきじゃないのか。
日本子が両手を突き上げ、表明する。
「さっそく出雲さんも呼んで特訓を始めるです!」
というわけで、そういうことになった。
それから数日後、学校を終えた俺たちは神社にいた。
俺の後輩である出雲八尋の実家である。
特訓の場所として提供してくれたのだ。
俺は隣に立つ、赤い紐で長い黒髪をポニーテールにまとめた巫女装束の出雲に改めて礼を言った。
「助かった。ありがとな、美人すぎる出雲!」
「び」
「び?」
「美人って言うにょあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
出雲が壊れた。
困っている人なら誰だってどんな時だって助ける超世話焼きの、どこからどう見ても綺麗な出雲の唯一の欠点がこれ。美人だとかいった賛辞にとことん弱いのである。
顔を真っ赤にした出雲が「はわわわわ!?」と慌てふためく姿は、どこからどう見ても普通にかわいすぎる女子高生でしかない。
「悪かった。もう言わないから許してくれ、綺麗すぎる出雲!」
「また言ったぞ!?」
「マジか!? くっ、なんてことだ! それは本当に悪いことをしたな、超絶美しすぎる出雲!!」
「またまた言ったんだぞ!? しかも超絶!?」
ふぅ、すっきりした。
最近、この出雲いじり、日本子にとられてばかりいたからな。
さて、肝心の特訓の方だが、日本子らしさを十全に発揮した『神姫業界のセンターになったら当然たくさん握手することになるよね!? エア握手会千本ノック!』などといったトンデモ特訓――というわけではなく。
フランス子と日本の神姫の座をかけて勝負した時と同じようなことをしていた。
つまり、巫女装束に身を包み、神社の手伝い。
そうやって日本に触れることで、大和撫子としての慎み深さみたいなものを身につけ、日本を司る神姫らしく勝利を掴むんだとか。
提案したのはアホ毛仮面ことフランス子だが、それは一理あると思った。
日本子は普段の言動のせいでスルーされているが、見た目だけならあれだからだ。
それは、阿素巳さんやアホ毛仮面、そして出雲と一緒に一生懸命巫女として働いている日本子を見てハァハァしている変質者が証明してくれている。
「日本子世界一かわいいなり日本子!!」
先代様。日本子の前に日本を司っていた神姫だ。
雪のように白い着物に紅の帯を締めた、背の高い美しい先代様はいわゆるひとつの奇跡の膨らみ分の持ち主であり、そんな人を変質者扱いするのは非常に心苦しいのだが、政権与党幹事長などといった政治家の先生方が設立した日本子私設ファンクラブ『とってもプリティぽん子たん推進委員会』略して『TPP推進委員会』による非公式日本子グッズの数々、うちわ、法被、ハチマキ、タオル、幟、抱き枕などなどなど、余すことなくすべて完全装備したうえ、木陰に隠れて日本子を眺めてハァハァしている姿は、どう考えてもそうとしか思えない。
「それにしても先代様、日本子のこと好きすぎですよね……」
「我はあれが変なことをしないか、先代の義務として常に監視の目を光らせているだけなり。変な勘繰りはすべきでないなり」
クールな表情のままそう言い切る先代様は、誠に立派なツンデレだった。
先代様の言葉はちょっと行きすぎだが、それでも日本子が、ま、まあ、かわいいことはかわいいので、この特訓で大和撫子っぽい雰囲気を身につけられたら、勝つような気はする。
だが……。
俺の視線の先で、日本子が転びそうになっていた。
あれからずっと、それこそ学校にいる時も、いろいろな特訓をやっているのである。大好きな洋菓子も「我慢するです……!」と封印して。
今のは、ただけつまずいたのではなく、疲れによるものだろう。
よく見れば目の下に隈もできている。
日本子に歩み寄る。
俺に気づいた日本子が顔を上げる。笑みを浮かべ、
「鎮雄さん、わたし、絶対勝ちますですよ!」
そう言って特訓を再開しようとしているその手を、俺は掴んだ。
「もういいだろう、こんなことしなくて」
「鎮雄さん?」
日本子は日本を司っている。つまり、日本子の行動は日本に反映されるのだ。
だから日本子が変なことをしまくったら、それだけ日本も変なことになる。それは日本に生きる人たちが、新しい時代を求める流れに繋がるはずだ。
誰もが新しい時代を求めた時、新しい神姫が生まれる。
そうしたら、日本子はお役御免。
みんな、日本子のことを忘れるだろう。
そうして誰ひとり、日本子のことを思い出さなくなった時、日本子は消えてしまう。
それが神姫の運命。
そんなことになったら――。
日本子が言う。
「鎮雄さん、わたしのことを心配してくれているです!?」
「………………………………………………………………………………ああ、そうだな」
いろいろ振り回されはしたが、こいつと出会ってからの日常を、俺は悪くないと思っていた。
なら、その日常を構成する要素である日本子のことを心配するのは、まあ、当然のことだろう。
「そうですか、違いますか。やっぱり鎮雄さんはツンデレですね!」
「いや、ツンデレじゃないし。それに人の話はちゃんと聞け。俺は『違う』と言っていない」
「そ、そういえばそうでしたです!?」
日本子が衝撃を受けていた。
だが、それは日本子だけじゃなかった。
「草薙殿が素直になるなんて、そんなの絶対にあり得ないでござる! ……はっ、これは拙者の妄想に違いないでござる!」
「おいアホ毛仮面、これは歴とした事実だ!」
「では、天変地異の前触れなり……!」
「先代様まで!?」
「草薙様やったら、世界を滅ぼすつもりでっしゃろか? いや、こわいこわい」
「マジか阿素巳さん! 俺が素直になったせいでそんな恐ろしいことになってしまうのか……!!」
「……先輩とデートとか、先輩とデートとか、先輩とデートとか、ボク、まだまだやり残したことがたくさんあるんだぞ!」
「すまん出雲! 全部俺が悪かった!!」
最初の方、声が小さくてよく聞こえなかったが、とにかく俺が悪いことは間違いない……!!
俺たちが絶望した時、その声は響き渡った。
「みなさん、落ち着いてくださいです!」
日本子だった。
凛とした眼差しで俺たちを見回す姿は、日本を司る存在と呼ぶにふさわしい、神秘的な雰囲気を漂わせている。
「鎮雄さんがちょっとデレ期になったぐらいで、そんなに騒ぐのはわたしの鎮雄さんに失礼です!」
日本子のものになった記憶はないが、その一言で、みんなが俺に謝った。
俺は気にしていないと首を振る。
日本子が言う。
「鎮雄さん」
「なんだ?」
「鎮雄さんに心配してもらえて、わたしはとってもとってもと~っても、しあわせものです! 鎮雄さんの一番になれるなら、それ以外のことはどうでもいいです!」
「日本子……」
「鎮雄さん、世界で一番、大好きです!」
日本子が俺の胸に飛び込んでくる。
俺は慌てて受け止めた。
俺の腕の中でしあわせそうに微笑む日本子。
視界の端に、ピンク色の何かが舞うのが見えた。
「桜なんだぞ……」
出雲が呟いたとおり、もうすぐ冬になろうかという季節なのに、桜が満開になっていた。
以前の俺なら、ハリセンかあるいはピコピコハンマーの形をした神剣を取り出し、変なことするなと日本子を叩いていただろう。
実際、この異常現象に戸惑う人だって少なからずいるはずだ。
けど、今は。
「花見でもするか。みんなで」
少しだけ楽しませて欲しい。
日本子が笑顔で頷く。
その後、陣中見舞いに来た観琴さんも巻き込んで、俺たちは季節外れの花見を大いに楽しんだのだった。
……そう言えば何か忘れているような気がするな。あれ、なんだったっけ?
× × ×
――アメリカ某所、世界神姫総選挙会場内。
キメキメの衣装に身を包んだアメリカ子が床を、だむだむっ、と激しく踏みまくっていた。
「何でアイツら来ねーのネ!」
そんなアメリカ子の背後に控えていた以巳樹は、鎮雄たちの前に姿を現した時とは違う、素に戻って、落ち着くように言った。
「アメリカ子様、落ち着いて欲しいズラ! 大丈夫ズラよ。草薙たち、単純に忘れてるだけに決まってるズラ!」
「もっと最悪なのネ!?」
アメリカ子に衝撃を受けられ、以巳樹も衝撃を受けた。
「こうなったら……以巳樹! 大統領に連絡するのネ!」
「何をするズラ?」
「日本に殴り込みに行くのネ!」
殴り込みという少々物騒な言葉とは裏腹に、そう言うアメリカ子の表情はとても楽しそうなものだった。
「待ってるのネ! 日本子、お兄ちゃん!」
〈了〉